ヤングセミナー
【レポート】人間塾2016年度まとめ合宿1日目
2017年3月7日
人間塾 第4期生 二宮知嵩
(国際基督教大学4年)
2016年度も終わりにさしかかりまとめ合宿が始まりました。今年も裾野市にある不二聖心の黙想の家にお世話になりました。私自身は二度目のまとめ合宿であり、また修了予定者として最後の合宿となりました。塾生それぞれが一年間の学びを振り返り、新たに決意や目標を掲げる大事な合宿です。自己を振り返りどのような言葉で伝えるのか、今回の合宿に参加するにあたりとても緊張しました。
1日目は日差しも春めいてきて爽やかな日でした。黙想の家に到着し、オリエンテーションを終えると外を少し散策する時間を与えられました。呼吸を整え、気持ちをこの合宿に切り替えていくことができました。
心のこもった昼食をいただき、午後のセッションに臨みました。テーマは前回のセミナーともつながる、「愛」について。現代社会において「愛」が誤解されている三つの点、というお話から始まりました。それは「本来自分から愛すべきところ、どうすれば愛されるかばかりになっている」、「恋に落ちる経験と、愛とを混同している」、「どう自分が愛するかではなく、愛の対象ばかりを論ずることに終始している」というものでした。「愛」とは何なのか、その難しい課題を考える時間になりました。
「愛」とは愛せるかどうかの能力であり、喜び、悲しみ、辛さ、ありとあらゆる「表現」を与える作業です。成熟した愛とは、相手に対して「責任」ある態度が取れるかということを学びました。責任(responsibility)はresponseのabilityであり相手に応えることのできる能力なのだと、人間塾では繰り返し説明されてきました。相手にとって責任ある行動とは何か、どうすれば覚悟を持って責任を取ることができるのか。また、相手を受け入れることから愛ははじまると学びました。
責任とは、物事の断面だけで捉えるのではなく、その人の全てを含めて相手を捉えることができるかということです。それを為すには、「自分の軸を捨てる」=「小さな死の経験」をできなければならないと塾長は言います。時には相手のために我慢をしたり、自分を諦めたりすることが必要です。それはただ単に自己犠牲ではなくて、他者が介在する人生こそ最も大事であると学びました。
夕食をいただいた後は、夜のセッションで一日目最後のインプットでした。中国、禅の故事で「喫茶去」という言葉を学びました。「喫茶去」という言葉自体は「お茶を一服どうぞ」という意味で、このストーリーは中国唐時代の禅僧がどんな立場の人にも同じように「喫茶去」とお茶をすすめたというお話です。どんな人にも、経験や立場関係なく、対等に平等に分け隔てなく接したということなのだそうです。
「分け隔てなく人に接していますか」という問いかけは、「愛」とは何かを考える上でとても大事な視点だと思いました。分け隔てなく人に接し、そこからできるつながりを持ちなさいと学びました。良い言い方ではないかもしれませんが、ピンからキリまで人々に出会いなさい、そして偉くなればなるほど、おごらず謙虚に感謝できちんと頭を下げられる人間になりなさいと言葉をいただきました。焦らずこつこつと生き、きつくてどうしようもなく限界な時、何か上からの力で引っ張られる経験、それこそ出会いだと私たちは学びました。
合宿一日目、「愛」についての学びを通して、私自身も含め(私が一番そうでありますが…)、塾生の多くが「自分を捨てる」ことの難しさに直面していました。人間塾が私たちに問いかける人生の在り方は人間同士の愛の交換であり、ただ自分の成長のみを軸に生きてはいけないのです。他者があってこその人生であり、他者が私たちを成長させてくれるのです。だからこそ、私たちの方から何を与えられる存在となるのか、私たちは考えなければならないのです。明日は、塾生一人一人が自己を振り返り、自分はどうしていくべきなのか、「使命」について分かち合いをします。それぞれがこの黙想の地で自分に向き合い明日を迎えます。