ヤングセミナー
【レポート】人間塾2015年度第18回ヤングセミナー
2016年2月1日
人間塾 第4期生 鷲見 響
(立教大学2年)
去る1月28日、新年明けてから第2回目のヤングセミナーが行われました。寒の内ということもあり、日が暮れれば冬の冷たい風が身体の芯にも届きそうなほど鋭く突き刺さりますが、一歩セミナー室に足を踏み入れれば、そこは既に集っている塾生の熱気に満ち溢れ、外の寒さなど微塵も感じさせません。学期末試験やレポート、実習などに追われている塾生もみな一堂に会し和気あいあいと会話を楽しむこの空間は、まるで現実世界から離れた異世界のように感じられます。
さて、この日のセミナーは、まず朝日新聞に掲載されたコラムの言葉の紹介から始まりました。
『人間、一度タガがはずれると、誰しも自分のなりたくないものにまでなってしまう』
これは、エッセイスト成澤弘子さんの著書「正統派オバンギャルドの主張」からの引用です。「箍がはずれる」とは、桶や樽の枠組みを固定している輪である箍がとれると一枚一枚の板がバラバラになってしまうことに喩え、緊張や束縛がとれ、しまりがなくなる様を表現した言葉として日常生活でもよく耳にしますが、我々人間にとっての箍とは一体何なのでしょうか。人間塾では私たち塾生はこれまでにも、自分の軸をしっかりと据え生きていくことの重要性について学んできましたが、塾長は、人間にとっての箍とは、その軸をぶれさせることなく自分をまとめているものであると語りました。そうであるならば、人がもつ軸が一人ひとり異なるように、その軸を支える箍も同様に多様な広がりをもつことでしょう。そして、自分の箍とは何かを考えるためには、他人任せにしていてはその本質にたどり着くことはできず、自分自身にしっかりと向きあうことが必要不可欠なはずです。
成澤さんはさらに、「自分を育てなくてはならない時期に、すっぱだかの自分と直面したかしないか」で軸を保てるかどうかが変わると語っていますが、箍についても同様のことが言えるのではないでしょうか。塾長は、大学生である今が、私たちにとって「自分を育てる」時期なのだと仰いました。すっぱだかの姿というものは誰しも人に見られたくないものですが、それを自分で見つめることも大変苦しい作業です。しかし、目を背けたくなるような姿であったとしても、その姿に気づいたのであればそれを見なければ、そして向き合わなければ軸を育てることはできないのです。
また、セミナーの最後に、塾長は人間の箍によってまとめられているのは板ではなく、太陽光パネルのようなものではないかという興味深い見解を示されました。様々な環境から放出される多様な刺激(光)を、自分を取り囲んだ太陽光パネルが吸収し、それをエネルギーとして社会に還元するのだというこの考えは、人間を樽や桶に例えることに違和感を覚えていた私にとって、非常にしっくりくるものでした。樽や桶のように自分に「底」を作ってしまっては、社会から人脈や知識、権力などを与えられたとしても、それを単にためるだけで満足してしまうでしょう。そうではなく、得たものを吸収し、それを自分にできる形に変形させて社会に還元することのできる太陽光パネルを自分の周りに張り巡らして生きてくことが、社会に生きる人間として本当に求められている姿勢であると考えました。
自分にとっての軸そして箍とは何か、明確な答えは未だ見つかってはいません。しかし、張り巡らしたパネルが崩れないような確固たる信念に基づいた箍をもつことができるよう、自分自身に向きあう努力を惜しまずに今後も生活していきたいと思います。