ヤングセミナー

【レポート】人間塾2015年度第7回ヤングセミナー

2015年7月31日

人間塾 第3期生 佐々木瑛代
(国際基督教大学4年)

今回のセミナーでは、答えの出ない、しかし人生の中で自らに問わなければならない問いに、私たちは直面しました。

人間塾・ヤングセミナー:すぐには答えが出ない問いが投げ掛けられる

すぐには答えが出ない問いが投げ掛けられる

一つ目の問いは、「自らに死ぬ」とはどういうことかということでした。一人の塾生はこれに対し、「自分を犠牲にすること」と答えました。では「犠牲」とはなんでしょうか。ある塾生は、「自分の意志と反して何かをすること」と答えましたが、塾長は更に、「何かをするとは、実際に何をすることか」と深さを求めます。ここで他の塾生は、「命を与えること」と返します。「犠牲」とは、自分の命を与えて、相手を生かすことです。では、私たちは、「犠牲」になったことがあるでしょうか。

「自らに死ぬとは」という問いに戻り、話は続きます。ある塾生はこの問いに対し、「自分のかかげた理想などを貫いて、犠牲になること」と答えました。ここで塾長は、「自らに死ぬとは、自分のやりたいこと、理想、夢を殺すこと」だと、私たちに伝えてくださいました。「なりたい自分」があるとしても、それは「本当にあなたがそうなるべき人なのかどうか」を考えなければいけないと塾長はおっしゃいました。なっていかなくてはならない姿というものが、私たちにはあって、それがなりたい自分と必ずしも一致するわけではないでしょう。塾長は、本来人々は、この世を少しでも良くするために生きなければならないのだと、語られました。全員がやりたいことをやっていては、この世を良くすることはできないと思うのです。だからこそ、「自らに死ぬ」時が、私たちには必要であると感じました。

二つ目の問いは「無とは何か」ということでした。この問いに対して、塾生たちはそれぞれ自分の考えを発表していきます。ある塾生は、「今までに無になったことはないと思う」と言い、またある塾生は「何かに集中している時、好きなことに没頭している時、無になっていることがある」と答えました。

さて、「無」とはどういう状態なのでしょうか。塾長は、「無とは囚われないこと」だとおっしゃいました。そう考えると、私は日々「無」とは反対の状態にある気がしてなりませんでした。だからこそ、何に囚われて生きているのか、その囚われからどのようにすれば解放されるのかを考えなければならないと、この問いを通して改めて感じさせられました。

人間塾・ヤングセミナー:秋田から頂いたさくらんぼを頬張る塾生

秋田から頂いたさくらんぼを頬張る塾生

三つ目は、「命とは何か」「生きるとは何か」という問いでした。生きていると感じる事柄として、多くの塾生が挙げたのは「人との関わり」でした。自分の行動などが、他者の幸せや笑顔に繋がっている時、自分が生きているという実感につながるということを語る塾生がいる一方で、喧嘩した時には、自分も相手も生きていると感じると述べた塾生もいました。また、自分の人生を振り返り、変化を感じられた時、生きてきたと感じると答えた塾生もいました。

このように、私たちは「生きている」ということを実感し、日々過ごしているのですが、果たしてそれは「命とは何か?」という問いの前提になり得るのでしょうか。塾長は、「生きる」ということの裏側には「失う、死ぬ」ということが、いつもあるのではないかとおっしゃいました。これらの話を聞き、私は、「生」が確かなものである「死」に裏打ちされているからこそ、「生きている」ということが私の人生の前提にはならないのではないかと、改めて考えました。メメント・モリということばにもあるように、私の人生で確かなことは「生」ではなく「死」なのだという自覚を持つことは、自分がどのように生きていくかを考えることにも繋がるので、大切なことなのではないかと思いました。

このように、答えのない問いをみんなで考えていくことによって、少しずつ視点が変わったり、深まったりするプロセスを、より強く感じられた時間となりました。答えが出ないからこそ、これからも一人ひとりが自らに問い続けなければならない課題が与えられたセミナーでした。



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