講演会
【レポート】平成30年度(2018年度)東京講演会第1回
2018年7月31日
人間塾 第6期生 神薗峻也
(多摩美術大学4年)
ギラギラと太陽が照り付け、猛暑が続く2018年7月22日に、仲野塾長による平成30年度第1回東京講演会が開催されました。今回の講演のテーマは、『受容と共生の中でもがく自己~ひと味違うカズオ・イシグロの世界~』でした。
今回の講演では、「自分とは何か」という問いから講義が展開されていきました。講演の最初に塾長は、自分の人生を形成する中で、忘れられない三人の恩人の話をされました。その中のお一人が、20世紀から21世紀にかけての世界は、宗教や民族によって分断される時代になると言われたそうです。そのような社会で生きていく上で、人間の成長の極みとなるのは、道徳観の発達であり、どのような基準と態度を持って社会に向き合うのかが最も大切であると、教えてくれたのは、もう一人の恩人だったそうです。
お話の展開の中で、塾長は、ナチスのアイヒマンのイスラエル裁判をレポートしたハンナ・アーレントを例に出しました。彼女は、アイヒマンの行為を、「誰にでも起こりうる悪である」と語っています。アイヒマンは大量虐殺を実行した怪物でも極悪人でもなく、ただ一人の忠誠な小役人として捉え、彼の個人としての道徳性の欠如を「悪の凡庸さ」であると指摘しました。
カズオ・イシグロの作品の解釈に話は移りました。イシグロの代表作の一つである、「日の名残り」というイギリスを舞台にした小説があります。主人公である執事のスティーブンスは、仕えている主人の愚行を見て見ぬふりをし、執事としての職務を全うします。個人としての道徳的判断を放棄した人間の生き方から、塾長は、この物語の中にも「悪の凡庸さ」を感じると話されました。執事のスティーブンスは、職務に忠実であるがために、個人としての判断基準を見失ったアイヒマンの心理状態と似ているように思うと、大胆な解釈を述べられました。
また、イシグロ作品には記憶の誤謬で読者を翻弄する技巧や、「真実を知ることの不幸」というテーマ性があると塾長は話されました。イシグロは30年ぶりにイギリスから日本に帰国した際、「ああ、もうあのころの日本はここにはない」と、ショックを受けたそうです。自分の中にある記憶に留められた日本と、現実的に変遷を遂げていく日本の狭間での結論でした。
目の前の小さな目的だけに囚われると、ただ役割や職務に忠実なだけの「悪の凡庸さ」に飲み込まれかねません。常に自分が人間として目指しているもの、個人として捨ててはいけないものを求め、考え、自分の中の価値基準に敏感で居ることの大切さを学んだ講義でした。