講演会
【レポート】平成29年度(2017年度)第三回東京講演会
2017年12月14日
人間塾 第4期生 梅山翔平
(筑波大学5年)
冬の寒さが日に日に増していく2017年12月3日、仲野塾長による第三回東京講演会が開催されました。今講演のテーマは、今年度最終回にふさわしく、『静かなる大革命~勝海舟のこれでおしまい~』でした。
勝海舟は今でこそ江戸無血開城を実現させた有能な幕臣として有名ですが、そこに至るまでには様々な苦労を抱え、そして努力を怠らなかった人物でした。今講演では、勝海舟の生い立ちから彼の最大の功績である江戸無血開城、そして遺言となった『これでおしまい』に至るまでの道のりを眺め、彼の人生から学べることは何か、ということを考えました。
勝海舟は1823年、江戸の下級幕臣の元に生まれました。幼少時より剣術、禅、蘭学を良く修めましたが幕府からの引き立てはなく、不遇といえる青年時代を過ごします。家が貧乏であったため、借りた蘭学書を2部筆写して1部を売った逸話は有名です。そんな勝海舟が歴史の表舞台に現れるのは1953年のペリー来航に際し、老中阿部正弘が海防意見書を町民まで広く募集した、正に時代の変革期でした。海舟も持論を提出し、老中の目に留まることになり、ようやく幕府に取り立てられました。
1860年、福沢諭吉と共に咸臨丸に遣米使節団の実質的艦長として渡米しています。しかし、その後2年は再び閑職についていたようです。1862年には復権し、この時期に将来世紀の会談を行うことになる西郷隆盛との会見を行っています。同時に坂本龍馬等志ある脱藩浪士を集め私塾を開催していましたが、その行動が幕府保守派に睨まれ、また蟄居となってしまいました。1866年、第二次長州征伐の停戦調停役を任されます。しかし、これも会談途中で中断。再び江戸に帰りました。そして1868年鳥羽伏見の戦いにて幕府が敗れ、いよいよとなったところで再び呼び戻され西郷との世紀の会談に臨むことになります。
このように海舟の人生を見てみると、不遇の時期を繰り返しながらも、幕府が真に必要となった時呼び戻される、ある意味幕府に振り回される人生を送ったといえるでしょう。しかし、それは彼がまれに見る“negotiator”(ネゴシエーター)だったからに他なりません。
1868年2月28日、倒幕軍を率いる西郷隆盛が駿府入りします。そして3月15日に江戸総攻撃を行う決定をしていました。海舟と西郷の会談は3月13日、14日に行われました。その交渉は海舟の綿密な準備により成功し、江戸城を無血開城するだけでなく、幕府に有利な条件を西郷側にのませることに、海舟は成功しました。その準備とはいったい何だったのでしょうか。
海舟は薩摩側についていたイギリス公使パークスを予め説得していました。その説得の内容は『総攻撃後の焼け野原になった江戸に価値はあるのか』というものでした。これに大いに納得したパークスは『白旗を上げた無抵抗の徳川を攻撃することは騎士道に反する』として薩摩からの総攻撃援助を拒絶、総攻撃後の貿易停止を伝えました。これにより、交渉は幕府側に大きく有利なものとなったと考えられています。しかし、海舟の準備はこれだけに留まりませんでした。彼は交渉が決裂した場合を考え、私財を投げ打って江戸中の船をかき集め、町民を利根川沿いに逃がす計画を立てていました。さらに総攻撃前に江戸を焼き払って総攻撃自体を無意味にしてしまう事まで計画していました。ここまでの準備があったからこそ、海舟はこの世紀の会談に西郷を呑んでしまうほどの胆力を持って臨むことができたのでしょう。
この大仕事を終えた海舟は新政府から様々な役職を提示されるも辞退し、時代の一線から退いていきます。退いた後は徳川幕府が倒れ、浪人となった者達の世話をして暮らしました。世紀の会談を行った西郷が非業の死を遂げる中、彼は1899年まで天寿を全うし、脳溢血で倒れ死期を悟った際『これでおしまい』と遺言を残しています。
海舟は卓越した交渉術と西郷隆盛を引きつけた人物的魅力を兼ね備えていました。その源には不遇な時期であっても努力を惜しまず学び続ける姿勢、そして日本を俯瞰して将来を案じ続ける視野の広さがありました。西郷と海舟の世紀の大会談は日本を最も憂う二人が出会う二日間であったからこそ、現代にも語り継がれるものとなったのです。今、混迷を深める世界情勢の中、勝海舟がいたら何を考えていたかと思わずにはいられません。彼の不遇でも腐らず努力し、人と人とを繋ぎ続けた人生を見て自らを省みて精進しようと決意する講演会となりました。