講演会
【レポート】平成27年度第三回東京3回シリーズ講演会
2015年12月17日
人間塾 第2期生 小関昭仁
(聖マリアンナ医科大学4年)
仲野塾長による東京講演会の第三回目が12月5日に開催されました。今回の講演のテーマは、『吉田松陰 ~人を育て、国をつくる』でした。
吉田松陰は、幕末から明治維新にかけて活躍する多くの若者を教育した、思想家であり教育者です。松陰は、長州藩の下級武士の家に生まれました。しかし、幼いころに藩で兵学を教える叔父の家の養子となり、藩の武士たちに兵学を教える立場となりました。
21歳の時に九州へ遊学し、それを皮切りに日本各地を回った松陰ですが、江戸へ遊学した際にペリー艦隊の船への密航を企てた罪で投獄されます。黒船を目撃した松陰は、多くの人が黒船を見て驚くだけであった中で、なぜこんな大きな船が浦賀沖まで入港できたのかという視点で、国の防備について考えていました。すぐに国に対し、防衛の見直しについての提言をしたそうです。政治家でも役人でもない一人の若者が、そのような果敢な挑戦を行ったのです。松陰は、人と異なる視点で物事をとらえていた人物であると同時に、思い立ったらすぐに実行に移す性格であったことが窺えます。
投獄された松陰は、獄の中で囚人や看守に孟子の講義をしました。獄に入れられ、嘆くどころか、講義までしてしまう彼の神経は相当図太いのだろうと思います。しかし同時に、強い信念があったからこそできたのでしょう。なお、この時に使っていた講義録が後々の松下村塾の教科書になったそうです。人生にとってマイナスであるはずの獄中生活が、彼の人生における思想を確立させる結果となり、思想家・吉田松陰が生まれるには不可欠な時間だったといえるでしょう。人生のいかなる出来事が、将来どのように役立つかは、すぐにはわからないものだと思いました。
のちに自宅謹慎を命じられた松陰は、自宅にて松下村塾講師として講義を開始しました。松陰が講義を始めるにあたっては、泊まり込みの塾生の世話や、塾生のための自宅の建て替えなど、松陰の実家である杉家が全面的に協力し、彼の志を支えて実現させました。松蔭の思いが周りの人を動かしたのでしょうし、また動いてくれる人の協力なくしては事は成らないのだと思いました。
松陰は29歳で斬首されます。彼自身は明治維新を見届けることはできず、短くはかない人生だったように見えるかもしれません。しかし見方を変えれば、時代の踏み石となり種をまいた人生であったともいえます。
松陰自身は、成果という実を刈り取ることができなかったわけですが、高杉晋作や伊藤博文など維新の立役者となった松下村塾塾生たちは、自らの基盤は松陰にあると語っており、松陰がまいた種は彼の死後、結実していきます。松下村塾の塾生の中には、志士として維新の原動力になった人もいれば、政治家として現代日本の礎を築いた人もおります。また、教育者となった人も数多く輩出しています。彼がまいた種は、彼一人の力の範疇を超えて、様々な形で実になったのだと思います。
彼の遺言である『留魂録』には、彼自身の思いを受け継いでほしいということが書かれています。これは塾生たちに宛てたものですが、今を生きる私たちに対しても残してくれた言葉であるとも感じました。
松下村塾の話を聞きながら、講演を聞いている自分たちの姿を見て、ここ人間塾は松下村塾のようであると感じました。より良い生き方について学び、皆で意見を言い合い、皆でここに集って食事をともにする。松下村塾で学んだ志士たちの姿を自分自身と重ねながら、講演を聞いている自分が居ました。